田中まじめ滅餓寧武露愚

よろしくお願いします。

田中まじめ物語5

つづき。

 

「やりたいこと」が店を持つことだった。一人で働いてみたかった。10月に2年半勤務した工場をやめて11月から美容師に復帰した。

 

復帰から半年後の5月に独立しようと思った。新規のお客様が見込める月だったことと、どこかのお店で長く勤めたくなかった。無謀な気もしたけど期限を決めないと達成できない気がした。

 

半年後に退職することを店側と約束して新潟市の中心部にある美容室に就職した。中途採用の美容師が集められ、運営は集客に専念する分業制の店だった。

 

来客数の多いお店で働いて勘を取り戻そうという狙いがあった。並行して開店準備に入った。

 

どんなお店を作りたいか。自分ができること、できないこと、得意なこと、苦手なこと、ニーズがあるか、競合していないか、誰がターゲットか、価格とメニュー、扱う商品、規模、場所、家賃、工務店、働きながら頭を振り絞って考えた。工場で働きながら妄想していたことも生きた。

 

51日オープンの逆算から工期が決まり、場所を決める期限も決まった。そこからは早かった。関わる方たちが出してくれる課題を期限内に一つ一つ潰していくことでどんどん形になっていった。

 

ディーラーさん、広告屋さん、銀行さん、工務店さん、不動産屋さん、お友達みんなに助けてもらってお店を開店させることができた。もちろん奥様にもたくさん支えてもらった。

 

2021年5月1日に開業。オープンした年は駆け抜けた。週一日しか休まなかった。ありがたいことにたくさんのお客様が来てくれた。 繁忙月である12月は自分の限界まで働いてみようという変な気を起こして具合が悪くなった。

 

具合が悪くなったというか鬱ではないけど全てを投げ出したいような苦しい気持ちになってしまった。自分で始めたことなのに。

 

しっかり休んだらケロリと治って「休みは大事」という言葉が身に染みた。

 

体力の無さを痛感したので2022年の年明けから週一回ながらプールに通い始めた。久しぶりの運動は気持ちが良かった。行ったらとにかく30分全力で泳ぐみたいな感じで運動していた。視力が弱いので度付きのゴーグルを買った。

 

また、2022年は奥さんと話して家を買う目標を建てた。本当に金のない夫婦でウサギ小屋みたいなところに住んでいた。家を買ったときに貯めていた貯蓄を放出しようと話していた。

 

コロナとウクライナ戦争の影響で注文住宅の価格は爆上がりしていた。

 

建売も考えたがどうも自分たちには馴染めず中古の家を探す旅が始まった。

 

2000万くらいで市内の駅近で50坪くらいでリセール価格も見込めて〜」と高校の同級生でもある不動産屋さんに相談したら、「出ないこともないけど毎日朝晩サイトの新着をチェックして翌日に見に行ってその場で決めるくらいのスピード感がないとゲットできないよ」と言われた。

 

「いやいや毎日朝晩て〜」と軽く構えていたが、サイトに掲載されていてイイと思った家を見に行くと、やはりどこかしら気になるところがあった。価格と状態と立地のバランスが難しかった。サイトに掲載されているものは基本的には誰かが購入しない判断をしたものだった。

 

たまに「めちゃくちゃ良いじゃん!」という家が出てきたが、次の休みに内見のアポを取ると内見までに先の買い手が着くことが何度かあった。

 

そうこうしている間に半年が経ち、これはいよいよ「毎日朝晩チェック」しなければならないと思い至った。

 

実際には毎日朝か晩にチェックくらいだった。朝晩チェックは難しい。しばらくして最初に考えていた条件の9割を満たすような物件が出てきたので即アポして翌日に確定させた。半年間くらい色々な物件を見たこともあり素早く意思決定することができた。

 

家を買ってからはリフォームや家具の購入に時間を費やした。2022年の大半は家について考えていた。

 

1年間を通じて週一回のプール通いで鍛えて迎えた202212月の繁忙月。途中までは調子が良かったものの大雪に見舞われた20日と24日の雪かきのダメージと最終週に向けての最後のペースアップが不幸にも重なってしまい、去年を上回るバッドマインドと体調不良に襲われて最悪な正月休みになってしまった。休んだら治った。

 

2023年。そうならないために毎週がんばっていたのにしっかりやられてしまって自分にとっては「プール意味ねえ」と思った。たぶん週一だと足りない。やるとリフレッシュになるけど。やらないより良いと思うけど。楽しかったけど。年明けからは毎日の筋トレを開始。できないときはやらないながら毎日。

 

自分のような人間が筋トレを続けられるなんて思ってもみなかった。昔の自分に2023年の自分は筋トレしてるよと教えてあげても信じないだろう。人は変わる。

 

モテるための筋トレは続けられなかったけど「いつまで元気に働けるんだろう」みたいな人生の巨大なバッドと対峙することにより筋トレに辿り着いてしまった。

 

20233月には新婚旅行に行った。沖縄。西表。マングローブ。ピナイサーラの滝。最高だった。ちょっと詰め込み過ぎてしまったので次はゆっくり行けるようにしようと思う。また働いて行けるようにがんばろう。とても良かった。

 

自然と自分たちの子供について考えるフェーズに入った。いちおう今までも子供が生まれるであろう未来に向かって選択して生きていた。「自然と生きていたら子供が生まれた」くらいが良いんだろうけど自分の性格が許さなかった。避妊して生きてきた。

 

新しく生まれた生命にとって生きることが良いことか悪いことかも自分には分からなかった。最近は生きることは良いと思える。どうなっても良い。悪いことをしないように楽しんで生きれたら。

 

楽しいと思うことだけ楽しんで暮らして良いと思うし、10年くらいの計画でコツコツやっていれば大体のことは何とかなる気がする。幸せ者の考え方かも知れないけど。思い通りにいかないことの方が多いけど。でも楽しめると思うから新しい生命が生まれたら嬉しいと思う。

 

自然の流れで生まれないなら生まれなくても良い。生まれなかったら山で暮らしてみよう。タマネギとトマトと香草を栽培してスパイスカレーを作って食べるとか。あはは。

 

「このように生きていかないと幸せになれないんだ!」と子供の人権を奪って自分の考え方を押し付ける親は子供に恨まれる。「生きる意味」や「幸せ」は本人の心が感じるもの。もし生まれてきたらたくさん色々なことを経験させてあげたい。どんな人間か客観的に見てあげたい。

 

話は少しズレるけど、「生きてて良かったってことは親のおかげじゃん!」と明るい友達は言うけど、死を考えてしまうほど親から追い込まれ傷つけられた心の中には「親に感謝」が存在しない。

 

親の責任感も分からなくもない。いや分かる。しかし戦争で殺されそうになった相手を許せるかどうかという問題に近い気がする。人は変わるのでいつかそう考えられる日が来るのかも知れない。そうなったらまた自分の心の動きを記録してみたい。まあ昔より全然大丈夫。超大丈夫。

 

高校生のときは死にたくなるくらい生きることがイヤだったけど、ついに子供を設けても良いような気持ちになった。人それぞれ色々な状況があるので簡単には言えないけど自分に似た境遇でつらい思いをしている人が読んで「自分以外にも似たような人がいる」と思ってくれたら良いなと思って自分の人生を書いてみた。

 

親から「このように生きないと不幸になるぞ」と脅かされて、それが全く自分の心に合わなくて、「なんで生きているんだろう」と、つらい気持ちで悩んでいる人に読んでもらえたら嬉しい。なんとかなる。なるようになる。なるようにしかならない。

 

一人で生きていくことは非常に難しいので助け合って社会の中で生きている。社会の中で生きることを自分で選んでいる。自分が人生で何を選択するか。自分と家族と友達の幸せと世界平和を祈っている。おわり

 

・・・・・

 

最近では、「月々52000円の住宅ローンで住む場所が得られるなら、アルバイトでも生きていけると思うので、もっとやりたいことやっちゃってもいいんじゃないか!?」と考えている。もしも子供が生まれたら金がなくても生活を楽しめるようにがんばる。図書館とか釣りとか。かな?できるかな?なるべく人と比べない。なるようになる。

 

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美容師をしているとどうしても失客する。理由は色々あるだろうけど突然こなくなると自分の至らないところが次々に思い浮かび悲しくなる。

 

日々の仕事に全力で取り組み、気に入ってもらえなかったら仕方がない。次がんばる。「ミスもサボることも含めて今日のベストは尽くした」と自分に言い聞かせて寝ている。間違っていたらごめん。

 

・・・・・

 

そんな感じで生きている。38歳になりました。

 

田中まじめ物語4

退職即東京観光。退職前、社員旅行でタイに行く予定だった。自分で積み立てていたお金が退職金の代わりになった。

 

東京には東郷清丸さんのライブを見に行った。感動して新潟に招聘するべくその場でギャラ交渉をした。ライブを主催してみたかった。

 

東京旅行の後は、2ヶ月まるっと遊んだ。まさに覚醒したルフィのように毎日ワクワクして生きることが楽しかった。忘れていた感覚だった。1ヶ月ニートすると飽きると聞いていたけど2ヶ月でも全く足りなかった。

 

将来に対する不安は全くなかった。今までがハードコア過ぎたので何の仕事に就ても給料は上がり休日も増えることが分かっていた。嬉しかった。金銭的な問題や時間的な問題から我慢していたやってみたいことがたくさんあったのでそれをやろうと思った。

 

2か月間のニート生活、最後の方はメルカリでモノを売って暮らしていた。木更津キャッツアイDVDとか売れてるアーティストのインディーの頃のCDとか。貯め込んでいたオタクグッズを一部ながら手放した。手放してしまうとそれはそれで大丈夫だった。まだ全ては無理だけど。

 

しばらくして派遣社員として工場で働きはじめた。初めての肉体労働だった。ひとつひとつは持つことができる重さでも連続して運んでいると疲労が溜まっていくことが分かった。最初の3ヶ月くらいは体が慣れなくて特に大変だった。以降は慣れたが腰痛が慢性化してコルセットを巻いて仕事をした。

 

仕事中は、次の休みに何をしようかとか家に帰ったら何をしようかとかどうやって生きていこうかなどなどたくさん考えていた。自分が担当していた仕事はそこまで難しいものではなかったので考える時間がとても楽しかった。

 

午前と午後に一回ずつ15分休憩があったり、昼休みが1時間しっかりあって休憩室で寝れたりして働きやすかった。休みも多かった。また、ほぼ毎日17時ピッタリに仕事が終わることに感動した。美容室に勤務していたときと比べて、会社で過ごす時間は半分くらいになり給料は前より50000円くらい上がった。幸せを感じることができたのは過去の自分が頑張っていたからなんだと思う。

 

工場でも人間関係は上手にできなかった。優しい人が多かったけど合わない人もいて輪に加わりたくなかった。少しは話したけど基本的にはシャッターを下ろして仕事をしていた。作業自体は1人でやるようなものだったので問題なかった。自分の気難しさを自覚した。

 

33歳のフリーターだったけど楽しかった。やりたかったことをやった。ライブを主催してみたかったので主催したり、フリマを主催してみたかったので主催したり。大変だったけど楽しかった。周りの人に助けてもらった。「よく考えて準備すれば何とかなる」と「大変だけど楽しい」が良い経験だった。アイドルにも初めてハマった。

 

フリーターだったけど結婚もした。させてもらった。自分の将来の選択肢が多すぎて迷っていたときに、とても良い人がいて、自分の存在を受け入れてくれた。そこを土台に人生を積み上げていきたいと思った。

 

新婚旅行はスペインに行こう!と10年ぶりくらいに貯金を始めた。結婚パーティーもやる予定だったがコロナ禍が到来した。新婚旅行も結婚パーティーも段取りが終わりあとは当日を待つだけという時に始まった。

 

最初は「コロナ?なにそれ?」みたいな空気感だったけど、世の中がどんどん封鎖されていった。強行したかったけどダメになった。パーティーをする予定だった日が初めての東京ロックダウン宣言が発出された日だった。かなり心苦しかったけど中止の判断ができて良かった。

 

それから3ヶ月間くらい「なんだこの世界」という感じでフワフワとしながら生活した。コロナ初年度の夏、良くなる見通しは全く立たなかった。新婚旅行が終わったら子作りするかなどと夫婦で話していたけど、いつになるか全く分からずフワフワとしながらニュースを眺めていた。

 

コロナが少し落ち着いたタイミングで帰省してきた東京の友達に「いつになるか分からんことを予定に組み込むと大変じゃない?」と言われて意識が固まった。たしかに。「こんなに先の分からん世の中で、いつ死ぬか分からんのでやりたいことをやろう」と思った。それがコロナ初年度の盆。

 

「やりたいこと」が店を持つことだった。コロナ初年度の10月に工場をやめて11月から美容師に復帰した。

田中まじめ物語3

入社。現役より5年遅れて入ったので一年先輩は四つ歳下だった。めちゃくちゃやりずらい後輩だったと思う。申し訳ない。

 

始めに言っておくと、めちゃくちゃつらいことがたくさんあって結果的に会社の考え方を拒絶するような感じで退職したけど、今はその気持ちも感謝に変っている。人間は変わる。それもやっと最近。

 

修行させてもらった美容室は、スタッフはファミリー、売上は満足度の数値化、お給料は少ないけど、やりがい、夢、感謝だった。入社してすぐの合宿で先輩が怒られ続けて立ったまま気絶して倒れた。「これはとんでもないところに入社したぞ」と思った。

 

とにかくお給料が安かった。教えてもらっているから給料が安いというのは分かるけど、売上が作れるようになってからも安かった。自分はそう感じた。

 

先輩が売上を作って、そこに若手がぶら下がっているという構図は分かる。必要経費も分かる。社長の給料も分かる。しかし、満たされない心に感謝を強いて充てがうような状態には疑問を感じていた。バランスだと思うけど自分の感覚とは違っていて受け入れ難かった。

 

退職するときに社長から「お前の弱点は構造が分かってないところだ」と言われたことが強く記憶に残っている。最近、別の経営者のお客様が「最近の若いやつは働く前から条件をつけてくる。仕事ができなくて教えてもらう立場なのに全く心構えが間違っている。分かっているやつしか雇いたくない。」と言っていた。

 

それで言うと確かに自分は構造が分かってないのかも知れない。教えてもらう立場は分かるけど、個人の我慢には限界があった。そのとき自分が言われた「構造」が何を指していたかを確かめる術はもうない。あと過去の「親の支配から逃げるために高卒で公務員を目指す」も構造の捻れに近いような気がしてゾッとする。

 

練習時間も長かった。自分が退職する頃にはかなり良くなっていたけど、入ったときには日付が変わるなんてザラだし大会前には2時間しか寝ない(地獄のミサワ)で仕事に行くことが当たり前だった。23年目くらいまでは長く店に残っているやつが偉いみたいな風潮があった。先輩も見てくれるために残ってくれていた。

 

練習量は必要。上手くなってそれでメシを食っていく。自分のため。落合博満も言っていた。そのときの自分に自主性が足りなかった。やらされていたらダメ。あと、やることはやらなきゃダメ。考えてやらなきゃダメ。

 

社長は当時から量より質を求めていたような気がするけど熱量を求められた若手が暴走し「いや、やるっス!」みたいな空気感が社内に醸成されてしまっていた。入社当時のスーパーハードな空気感は、社長と店長たち先輩たち後輩たちの関係性や時代の流れにより緩やかに変わっていった。

 

1年目の終わりがけか2年目くらいのときに、一期上の先輩(年齢は四歳年下)から「家帰っても寝るだけだし一緒に住もう」と誘われた。『確かに金が浮くしヤバ過ぎてウケるな』と思い家賃3万円の六畳一間のアパートに2段ベットを持ち込んで先輩との同棲生活が始まった。タコ部屋の完成だった。つらすぎて一年くらいで終了した。特に事件が起きた訳ではないし先輩との仲も良好だったけどパーソナルな空間が生きていくために必要だと思った。

 

休みは講習会やミーティングと練習や練習モデルを街中に探しに行ったりした。これも社長は「休めるときは休め」と言っていたけど熱量若手の「いや、やるっス!」が暴走していた気がする。

 

入った頃は仕事ができず何をやっても怒られた。怒られ続けると「怒られキャラ」みたいなものが付き、「何を言っても大丈夫な人」を経て「雑に扱っても大丈夫な人」になってしまった。

 

どれくらい仕事ができなかったかというと、最初は「気を使う」という言葉の意味すら分かってなかった。極端に言うと自分中心の合理性や効率性だけで生きていた。

 

「気」が使えないと仕事の流れや優先順位が全く見えず職場のスピードについていけなかった。絶えず先を読みお客様が快適で先輩が仕事をしやすく店の価値が上がるような最適解が求められた。

 

若手の頃は、「何で聞かずに勝手なことするんだ」と「もっと自分で考えろ」の狭間でボロボロだった。気を使えない人はアクションを起こしたいときに自分の引き出しに何か入ってないと動けないので色々なパターンをインプットすることが基礎編な気がする。違うのかな。自分の場合は全てぶつかり稽古で教えてもらったけどもっとマニュアル化できたのではないかとも思う。

 

先輩との関係性の作り方も重要だった。公務員のときにはあまり感じなかった明確な上下関係があった。技術を教えていただく立場、アシスタントという仕事を手伝わせてもらう立場、自分はとにかくプライドが高く自己中心的な性格だったので上手に立ち回れなかった。言うことも聞かなかった。聞けなかった。

 

言うことを聞かないのでアシスタントに入らせてもらえないことがたくさんあった。シャンプーだけでも先輩スタイリストのお客様全員に入客させてもらう信用をいただくまで3年くらいかかった。

 

プライドは「俺はスゴイから尊重してくれ」という願い。子供が大人になるとき、社会に帰属していくときに、現実と折り合いを付けていくものだと思う。ただプライドは自分を大事にすることでもあるので生きていくうえで必要な部分もある。良いプライドと悪いプライドがある。

 

できないくせにそのような感じだから上手くいかないと頭では分かっていたけど自分を変えることの難しさに苦しんでいた。自意識の殻に閉じこもっていた。

 

社長は「プライドが高いから人の言うことが聞けない。先人たちの知恵を尊重せず全部自分でやろうとしてる。だから時間がかかる。まず信用してやってみろ。成長が遅いと会社が困る。そういうやつのプライドを壊して殻を破ってもらうのが俺の仕事だ」(意訳)というようなことを言っていた。技術を教えてもらうための心構えは、このあたりな気がする。自分みたいな人間には。 

 

また、社長は「どんなやつでも一人前にしたい」とも言ってくれていて、どんなに仕事ができなくてもクビにはしなかった。今でこそ少し分かる。その環境でしか自分みたいなものは成長が難しいような気がする。育ててもらった。感謝している。

 

ただ、実際に修行しているときには全方向から浴びせられる言葉を選ばないご意見に身も心もボロボロだった。自分では無いけど怒られまくった先輩が失踪したり、怒られまくった後輩がトイレに立てこもってそのまま退職したりする職場だった。現代社会で消えつつあるもの。しかし、それを経ての今がある。

 

お客様さまとお話することはとても楽しかった。美容師になる前の20代前半にモテたい一心で磨いていたコミュニケーション能力が活きた。遊んでいたときの女性でも男性でも色々な人と話した経験のおかげだった。

 

人間関係と技術習得と売上の追い込みと未来に対する不安のストレスに押し潰されて胃潰瘍に罹った。シャンプー中に貧血を起こし失神してそのまま入院した。

 

ベトナムのお店に3ヶ月働かせてもらったこともあった。会社から言われていた仕事とベトナムの会社から求められた仕事に相違があり、無理ですと言って帰国して美容師をやめようというところまで追い込まれた。だが、そこでもめちゃくちゃ良い人たちに助けられてベトナムの大学でモデルハントして練習して乗り越えた。壮絶だった。

 

スタイリストとしてベトナムの地でデビューした。このとき明確に「目の前のお客様の頭を俺が何とかする」という気概が湧き起こった。今はごく当たり前の感覚だけど、一皮剥けた瞬間だった。

 

渡航前、4期だったか5期下に天才が入社してきて技術も売上も人望も一気に越されて居場所が無くなる未来が見えたときがあった。しかし自分がベトナムに行っている間はやはり先輩方からボコボコにされていたらしい。緩衝材が無くなって矛先が変わったんだなと納得した。

 

帰国して半年くらいで退職した。辞めた理由としては給料が安すぎたということと、今のままの環境で働いてもすぐに良くなるように思えなかったことが理由だった。辞めるときには自分も32歳を超えて周りの友人たちが結婚したり家を建てたりしている話を聞くようになっていた。

 

修行を覚悟して5年遅れて入社したものの周りより圧倒的に金が無い生活に耐えられなくなった。追わされ続ける売上と技術力と給料の関係も大人になるに連れて納得できないバランスに感じてきた。最終的な給料もツバサ時代のプールイより全然少なかった。

 

退社を決める前、ストレスの絶頂期は虫に食われる夢を見て絶叫して夜中に目を覚ます日が続いた。同棲していた今の奥さんに心配された。退社を決めてからはピタリと見なくなった。

 

退社する半年くらい前から新規のお客様にスタイリストとして入客させてもらっていたが社内の規定としては売上が足りずアシスタントのまま退社した。7年半勤めた。

 

この物語はフィクションです。

田中まじめ物語2

中学校入学。小学校のときは勉強しなくても授業が理解できていたけど、中学に入るとそうはいかなかった。テストの順位も発表され真ん中か真ん中より下くらいだった。どんどん下がっていった。

 

親は「ちゃんと勉強しないとお前は幸せになれないんだぞ!」と抑圧してくるタイプだった。自分がちゃんとしてなさすぎて不安にさせてしまったのかも知れない。どんどんと家族に自分の心を見せないようになっていった。

 

中学生のときは友達と図書館で昼休みを過ごしていた。友達と話したり図書館の漫画が読めて楽しかった。すでに心に闇を抱えていたからか図書館の司書の先生から下村湖人次郎物語を「読んでみて」と手渡されたことがあった。

 

読んでみて「これはまさに俺の物語ではないか!」と驚いた。祖母と長男の関係や親の期待やプレッシャーに押し潰されそうな子供の生活が描かれていて、もうあまり覚えていないけど自分と同じような苦しさを感じている人の存在に当時の孤独は救われた。いま考えると司書の先生すごすぎる。自分からも何か出ていたのかも知れない。面白い。

 

それ以外にも当時読んでいてハッと自分を重ねたものは、はやみねかおるのあやかし修学旅行鵺のなく夜、吉野弘の父という詩、色川武大の百歳など。いずれも家族関係についての物語。

 

そのような多感な時期に、ノストラダムスの大予言2000年問題、ITバブル崩壊デフレスパイラルなどの言葉がメディアで盛んに取り上げられていた。時代の空気感からも親の意見を裏付けるような暗い未来を感じていた。アメリ同時多発テロも16歳のとき。

 

公立の進学校の受験に失敗。滑り止めに受けた私立の高校に入学した。16歳くらいからは早く進路を決めろと更に急かされた。漫画が好きだった自分は世間を知らない少ない選択肢の中から美大に進学したいと親に申告。「そんな『つぶし』が効かないことをしてどうするんだ」ということで説き伏せられ断念。美大の受験も大変そうだったことを後から知って自分が逃げた部分もあった。今考えると非常に難しい話である。まあ、やっぱりそもそも圧をかけすぎないのが良いのだと思う。

 

高校入学したとき、家の前で撮影した写真がある。そのときの顔は当時のメンタリティの全部を現しているかのようで見返すと非常に強烈。死んだ魚の目。わざとやっている。「私は不幸な人間です」と親に当て付けている。

 

自分の小さな世界の中にはやりたいことが見つけられなかった。やりたいことは自分の世界が広がっていくことで見つかりやすくなると今は思う。仕事の種類、人の気持ち、自分が人より劣っているところ、優れているところ、好きなこと、嫌いなこと、などなどたくさん。

 

何も分からないうちから進路を決めろと急かされ、選んだ意志は否定され、勉強しろと命令され、かといってそのように言われて生きた先に自分の幸せは見出せず、ついに「生きる意味とは」に思考が支配される生活がスタートしてしまった。

 

「生きる意味とは」とサブカルの相性は抜群で漫画や映画、小説を見たり音楽を聞いてるときはその命題から目を背けることができた。

 

小さい頃にクレヨンしんちゃんめちゃイケを見ることを禁止されたり、スーパーファミコンを買ってもらえなかったりしたことにより、メインストリームから離れたところに活路を見出す「逆」を狙う性格が培われていた。その「逆」ともサブカルは相乗効果を発揮。高校生になって歪みは加速していった。

 

一人で生きることに関しては、無頼伝涯やヒミズから影響を受けた。あとはブルーハーツガガガSPトレインスポッティングも自分の孤独を癒やしてくれた。他漫画全般も。99ANNも。

 

16歳の冬。キワキワだったけど家出をする勇気が無かった自分は、親に養われているから命令を聞かなくてはいけないという構造から脱するために公務員になろうと決意。高卒で就職できる職業の中で最も安定した仕事に感じていた。将来に対する不安もそれで解消できる気がしていた。見識が狭かった。

 

スガシカオがサラリーマンからアーティストに転向した話を子供の頃にHEY!HEY!HEY!で見ていた。音楽や漫画が好きだったので安定を手に入れてから自分もいつか何かやってみたいと考えていた。

 

就職を有利に立ち回るために高校2年生の春から高校3年生の秋まで無遅刻無欠席で過ごす。就職のためもあるけど学校に行くと友達がいて家にいるより気が紛れたので学校に行くことは好きだった。コミュニケーション能力は小さい頃の親の愛情とかなのかな。分からない。

 

一緒に遊んでくれた友達には本当に救われた。昼休みや放課後にトランプをして楽しかった。死を見つめる日々の中で楽しいと感じることで生きることができた。友達と漫画、音楽に命を救われていた。

 

「友達と遊んで楽しい」とか「この漫画面白い」などが原体験として自分の中にあったので死を選ばなかった。「生きる意味とは」に答えるなら「好きな漫画読んでるとき楽しくない?」で良いと思う。楽しいから生きているというところがスタートで、何ものかになりたいなら努力したらいいけどそれだけに囚われるとキツい。殺し合いの螺旋。

 

友達とユーモアを交えて会話を楽しむ人格は家族には見せず、家の少し手前からガラガラと分厚いシャッターを下ろして生活していた。ATフィールド全開。超絶思春期。

 

「生きる意味とは」に支配されていたので若い生命を輝かせている同級生が理解できなかった。悩みが無さそうでひたすらにうらやましかった。養われてんのに男女交際とかしてんじゃねえよと思っていた。歪んでいた。ひがんでいた。斜に構えていた。愚かだった。全て自分中心に考えていた。

 

「生きる意味とは」からくる希死念慮と胃痛、不眠、金縛りに苦しみながら公務員試験の過去問を毎日毎日ひたすら写経。地方公務員試験初級に合格。

 

やり方が分からず我流の「書いて覚える」で合格したわけだが、代償に恐ろしく不器用な脳味噌に仕上がった気がする。理解して身に付いた知識か、記号だけが頭に詰まっている状態のどちらが良いかは明らかで、我流による成功体験も素直さが失われた一因だと思われる。

 

性格の歪みと相まって更にプライドが高くなった。ただ、その成功体験が自信や自己肯定感に繋がるので良かった面もある。と思う。

 

高校卒業して1年間は一人暮らしを始めるためにお金を貯めた。その頃は地元の友達と深夜のガストに溜まったり夜な夜なドライブに出掛けることが本当に楽しかった。木更津キャッツアイや3名さまというドラマのイメージでダラダラと金をかけず楽しく過ごす。あとはサマーソニックでオアシスやウィーザーを見た。リトルバーリーとレイクスもカッコ良かった。19歳の夏。

 

一年間の貯金生活を経て待望の一人暮らしが始まった。心のシャッターを下ろし過ぎていたので家を出るときに父親から「一人暮らししても家族の縁は無くならないんだからな!」と怒鳴られた。今は不安にさせて申し訳なかったなと思う。

 

遂に一人暮らしが始まった。何をしようが自分を咎めるものはいない。自由だ。圧倒的な自由を得たのだ。心の底から嬉しかった。

 

そこからは友達とずっと酒を飲んでいた。最高に楽しかった。生きていて良かったと思えた。

 

生活費を除く給料の使い道は、酒と音楽と漫画と映画と服だった。友達とどうやって楽しい時間を過ごすかということと女性にモテることだけを考えていた。本当にただそれだけだった。

 

いつも一緒にいた友達は個性がバラバラだった。面白いやつ、イケメンなやつ、ダンスしてるやつ、優しいやつ、その個性がひしめき合う中で自分はエキセントリック枠を狙った。エキセントリックでミステリアスなオタク枠。埋もれないためにどうすればいいか遊びながらずっと考えていた。

 

よく二日酔いを風邪だと言って嘘をついてズル休みした。社会を舐め切っていた。あぁ、本当にごめんなさい。

 

そのときの仕事は住民票を出したり国民保険料を集めたり。国民保険料を納付できない人に納付のお願いをしたり、納付の相談をしたり。ノルマもなく、成果が上がらなくても自分には関係なく思えた。

 

また、納められない人に納めてとお願いすることが苦しかった。納めないとダメだけど。困ったときの助け合いのためのお金なので。頭では理解していた。向いてなかったのかも知れない。

 

享楽的な日々を過ごすうちに心の隅の方から別の感情が段々と湧いてきた。「このまま年齢を重ねたら、何もないおじさんになりそうだ。それは嫌だ」。今思えばどうでもいいのだけど、そのときは若くて血気盛んだった。何ものかになりたくて生命を燃やしている友達が近くにいて眩しかった。自分も何ものかになりたかった。ただ何も行動していなかった。

 

高卒の公務員に出世が難しそうに思えたことも徐々に未来を暗澹たる気持ちにさせた。高卒が出世するためには大卒資格を取らなければいけないようだった。今考えると「やれ」というだけの話だけど、そのときは「このままで」「自動的に」「幸せになれ」と願っていた。残念。

 

酒酒酒酒。週4で酒、週2でクラブ。将来へのぼんやりとした不安に対して「安定した人生を手に入れた。これでいいのだ。職を失うことはない。もう努力し終わったのだ」と自分に言い聞かせながら遊び呆けた。

 

最高に楽しかったけど少しずつ満たされない心を募らせていた。安定はしていたがやりがいを見出せなかった。今なら公務員の仕事にも見出せる気がする。仕事は必ず誰かのためになっている。目の前のことを一生懸命にやる。

 

遊びながら「もしも公務員をクビになったら」と妄想していた。眼鏡屋か美容師はどうだろうと考えた。眼鏡が好きだった。美容師の一生を懸けて技術を追い求める生き方は充実した人生が過ごせるような気がした。もしくは全てを捨てて沖縄に移住して大麻を栽培する人になりたかった。

 

料理でもスケボーでもギターでも何かに夢中になっている人がうらやましかった。スキルアップしていく友達がうらやましかった。趣味が無くて悩んでいたけど金にならないことにパワーを割けなかった。合理主義的思考に凝り固まっていた。

 

高卒から4年半、酒酒酒酒の怠惰な生活を送っていたが遂にバースト。飲酒運転で捕まり懲戒免職。幸いにも怪我をした人はいなかった。笑い話ではない。飲酒運転は絶対にダメ。パトカーでアルコールチェッカーを膨らませながら「美容師になろう」と思った。なぜか眼鏡屋も沖縄移住も消えていた。

 

美容師を目指したわけは?と聞かれたら、「一生を通じて技術を修めていく生き方に魅力を感じたからです」と答えている。仕事にやりがいを感じたかった。自分の技術を誰かに提供して喜んでもらいたかった。生きがいを感じたかった。今はお客様に選んでいただいて仕事ができていると思っている。自分の場合。

 

あとは、とにかくたくさん美容室があるので自分にも開業できるような気がした。開業したら全て自分の責任と裁量で仕事ができる。男性ホルモン的な部分で組織のトップになりたかったのかも知れない。人に何かを強いられたくなかった。これも今は社会があって自分が存在していると思っている。なんでもいいけど。

 

また、公務員のときは世の中のルールの番人として個の人格を消して窓口対応をしていたけど、美容師になったら友達と話すようなイメージでお客様と話せると思った。そのような接客を受けていたので。髭も服も自由だった。サブカル糞野郎なので好きなものに囲まれて働けたら幸せな気がした。

 

専門学校に入学。借金をすると言ったら親が出すと言ってくれたので「絶対に返す」と思って親から借りた。4年半の享楽的生活で少し自分の態度は軟化していた。ただ金はいつか必ず返すとまだ思っている。

 

現役生より5年遅れて入学。5歳も下に友達なんてできるわけがないから俺は勉強して首席で卒業するんだと思って入学したけど、気が付けば勉強もそこそこに周りを飲み会に誘いまくる劣等生グループを年長者として引っ張っていた。

 

学校では技術というものに触れた。上位10%はすぐにできるやつ、次の40%は努力すればできるやつ、その下の40%はかなり努力しないと何もできないやつ、最下層はかなり努力しても厳しいやつ。自分は最下層の少し上くらいだった。

 

天性の手先の器用さや、人の言うことを聞ける素直さ、とにかく良く手本を見る研究心、自分にトレースできる柔軟さ、とにかく数をこなす努力、今は技術を修めるコツが少し分かるけど、そのときはいずれも足りなかった。創造性は別の軸の話。

 

自分の不器用さに絶望しながらも、いいやつがたくさんいたので楽しい学校生活だった。高校を卒業して少し大人になってから思う「今の状態で学校生活に戻れたらなあ」という子供じみた妄想が叶えられたような貴重な時間だった。

 

無事に国家試験を突破し就職。就職先は、現役で美容師をしていた親友の彼女に助言を求めて決めた。10年前、体育会系のノリが世間でも容認されていた時代。スラムダンクで言うと陵南高校的なお店だった。

 

3に続く。

 

【メモ】

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田中まじめ物語

この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 
田中まじめは1985年の夏にN県N市で生まれた。最初の記憶は3歳歳下の弟が生まれたときで、「弟が生まれた兄は赤ちゃん帰りして母を困らせるものらしいから色々と我慢しよう」と思ったことを覚えている。
 
通っていた保育園は少しユニークで、保育園の周りを走らせる外周が頻繁に行われていた。「園児にここまで走らせるか」と子供ながらに思っていた。夏は裸で海に行って男の子は園長先生から海に投げ入れられるという遊びがあった。嫌がる子は免除されていたと思うけど、それも当時から何だか変だなあと思っていた。周りの大人も「この保育園は少し変わっている」と言っていた。
 
保育園を卒園し小学校へあがるときに隣りの町に引っ越した。保育園の友達と離れることがとても悲しくて離れたくなかった。親の都合という絶対的な力に屈するしかない自分を憐れに思って泣いた。
 
小学校入学。地域の保育園幼稚園から持ち上がりで入学した同級生のコミュニティが既に存在していて、別の園から入学した自分は異質な存在だった。
 
入学してすぐに元気な男の子のグループからいじわるなことをされた。「ここで舐められたら"終わる"!」と思った自分は、グループのリーダーの名札を奪って体育館の隅に隠した。
 
さすがのリーダーも半ベソをかいたところで「友達になってくれるなら名札を返す!」と言って友達になった。正しく言った言葉は覚えていないけど内容はそのようなものだった。
 
運良くリーダーを抑えたので何となくみんなと一緒に遊べるようになった。自分のどこにそんな闘争心があったか不思議だけど、保育園のマラソンと幼少期に父親と戦いごっこをしていたことで生まれた人格なのかも知れない。まずリーダーを抑えようと思ったことを覚えている。
 
その後は平和な小学校生活を過ごした。友達とファミコンをしたり鬼ごっこをしたりサッカーをしたりして遊んだ。心の底からだいたい毎日楽しかった。
 
夏になると従兄弟と海辺の民宿へ泊まりに行った。海の中を水中眼鏡で観察することが楽しかった。テレビでは金田一少年の事件簿が放送されていた。夜は民宿のロビーにあったスラムダンク稲中卓球部を読んで夜更かしした。とても美しい記憶として今も心に残っている。つづく
 
※少しずつ書き足していく。思いついたときに。(1/25)(1/26)

無償の愛

あちこちオードリーでアンミカさんが、「見返りを求めないモノ、場所に癒される」という話をしていた。


なるほど。無償の愛に触れるとたしかに癒される。ワンチャンとかニャンチャンとかカワイイ〜ヨシヨシヨシ〜ってすると癒される。


坂本慎太郎もソロアルバム「できれば愛をこめて」について「細胞が傷を治しているような顕微鏡で覗いたラブを作品にした」と語っていた。無償の愛。


今の自分は草に水やりをしていると癒される。これも見返りを求めてない愛だと思う。いや、枯れたらイヤだから求めてるのかな?分からん。割と無心。


草に水をやるように見返りを求めない愛を楽しみたい。いや、楽しもうとしてるなら求めてるのかな?分からん。あまり考えないように。


番組でアンミカさんは「人が何かを願う石はキツイ」ということも言っていた。これもなんとなく分かる気がする。


お金持ちの人が占い師は自分勝手な願いを持って来る人を相手にしているから悪い気が溜まってしまうんだけどそれを更に次のお客様に渡しているから占いにはハマらない方が良いんだよと言っていた。スピスピこぼればなし。


最近思ったことはそんなことです。


メンポさんの煮干し中華に一味をかけて食べたいです。では。

子育て

何の予定もないけどたまに子育てについて考える。どうやって親子関係を築くことが良かったか。何が家族の幸せか。


最近見たもので人間関係とやり続けることが大事というものがあった。子供に何か伝えたくなったときに思い出したいと思った。


良い人間関係の中に入ること。互いに配慮できるように、その輪が広がるように、その輪から新しい良いものが生まれるように。自分を大事にすること。自分を大事にしていないと、自分は大事にしなくて良い人と思われる。そうすると良い情報が入ってこない。もちろん相手も大事にする。まずは自分を大事にしてから。


そう考えるとコミュニケーションは超大事。人間関係を築く上で色々な要素があって、コミュニケーション能力が全てでは無いと思うけど。自分が思っていることを伝えること、相手の思っていることを汲み取ること、など。社会の中で生きていて、社会はたくさんの人間で形成されている。人間関係が上手くなると良い。


あとはやり続けること。10000回目のチャレンジが当たるかも知れない。10000回チャレンジできるチャレンジは良いチャレンジ。金銭的や体力的など何か条件がついて100回しかできないチャレンジだと到達できないことが多い。10000回が多くて100回が少ないという意味ではなくて、やり続けられることが大事。その状況は自分で作るもの。


あとはもしも子どもがいたら何が得意かしっかり見てあげたい。なるべく関わる人も。


思ったことをちょろりちょろりと。ブログ楽しい。


ひっひーーー!!!!