田中まじめ滅餓寧武露愚

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田中まじめ物語2

中学校入学。小学校のときは勉強しなくても授業が理解できていたけど、中学に入るとそうはいかなかった。テストの順位も発表され真ん中か真ん中より下くらいだった。どんどん下がっていった。

 

親は「ちゃんと勉強しないとお前は幸せになれないんだぞ!」と抑圧してくるタイプだった。自分がちゃんとしてなさすぎて不安にさせてしまったのかも知れない。どんどんと家族に自分の心を見せないようになっていった。

 

中学生のときは友達と図書館で昼休みを過ごしていた。友達と話したり図書館の漫画が読めて楽しかった。すでに心に闇を抱えていたからか図書館の司書の先生から下村湖人次郎物語を「読んでみて」と手渡されたことがあった。

 

読んでみて「これはまさに俺の物語ではないか!」と驚いた。祖母と長男の関係や親の期待やプレッシャーに押し潰されそうな子供の生活が描かれていて、もうあまり覚えていないけど自分と同じような苦しさを感じている人の存在に当時の孤独は救われた。いま考えると司書の先生すごすぎる。自分からも何か出ていたのかも知れない。面白い。

 

それ以外にも当時読んでいてハッと自分を重ねたものは、はやみねかおるのあやかし修学旅行鵺のなく夜、吉野弘の父という詩、色川武大の百歳など。いずれも家族関係についての物語。

 

そのような多感な時期に、ノストラダムスの大予言2000年問題、ITバブル崩壊デフレスパイラルなどの言葉がメディアで盛んに取り上げられていた。時代の空気感からも親の意見を裏付けるような暗い未来を感じていた。アメリ同時多発テロも16歳のとき。

 

公立の進学校の受験に失敗。滑り止めに受けた私立の高校に入学した。16歳くらいからは早く進路を決めろと更に急かされた。漫画が好きだった自分は世間を知らない少ない選択肢の中から美大に進学したいと親に申告。「そんな『つぶし』が効かないことをしてどうするんだ」ということで説き伏せられ断念。美大の受験も大変そうだったことを後から知って自分が逃げた部分もあった。今考えると非常に難しい話である。まあ、やっぱりそもそも圧をかけすぎないのが良いのだと思う。

 

高校入学したとき、家の前で撮影した写真がある。そのときの顔は当時のメンタリティの全部を現しているかのようで見返すと非常に強烈。死んだ魚の目。わざとやっている。「私は不幸な人間です」と親に当て付けている。

 

自分の小さな世界の中にはやりたいことが見つけられなかった。やりたいことは自分の世界が広がっていくことで見つかりやすくなると今は思う。仕事の種類、人の気持ち、自分が人より劣っているところ、優れているところ、好きなこと、嫌いなこと、などなどたくさん。

 

何も分からないうちから進路を決めろと急かされ、選んだ意志は否定され、勉強しろと命令され、かといってそのように言われて生きた先に自分の幸せは見出せず、ついに「生きる意味とは」に思考が支配される生活がスタートしてしまった。

 

「生きる意味とは」とサブカルの相性は抜群で漫画や映画、小説を見たり音楽を聞いてるときはその命題から目を背けることができた。

 

小さい頃にクレヨンしんちゃんめちゃイケを見ることを禁止されたり、スーパーファミコンを買ってもらえなかったりしたことにより、メインストリームから離れたところに活路を見出す「逆」を狙う性格が培われていた。その「逆」ともサブカルは相乗効果を発揮。高校生になって歪みは加速していった。

 

一人で生きることに関しては、無頼伝涯やヒミズから影響を受けた。あとはブルーハーツガガガSPトレインスポッティングも自分の孤独を癒やしてくれた。他漫画全般も。99ANNも。

 

16歳の冬。キワキワだったけど家出をする勇気が無かった自分は、親に養われているから命令を聞かなくてはいけないという構造から脱するために公務員になろうと決意。高卒で就職できる職業の中で最も安定した仕事に感じていた。将来に対する不安もそれで解消できる気がしていた。見識が狭かった。

 

スガシカオがサラリーマンからアーティストに転向した話を子供の頃にHEY!HEY!HEY!で見ていた。音楽や漫画が好きだったので安定を手に入れてから自分もいつか何かやってみたいと考えていた。

 

就職を有利に立ち回るために高校2年生の春から高校3年生の秋まで無遅刻無欠席で過ごす。就職のためもあるけど学校に行くと友達がいて家にいるより気が紛れたので学校に行くことは好きだった。コミュニケーション能力は小さい頃の親の愛情とかなのかな。分からない。

 

一緒に遊んでくれた友達には本当に救われた。昼休みや放課後にトランプをして楽しかった。死を見つめる日々の中で楽しいと感じることで生きることができた。友達と漫画、音楽に命を救われていた。

 

「友達と遊んで楽しい」とか「この漫画面白い」などが原体験として自分の中にあったので死を選ばなかった。「生きる意味とは」に答えるなら「好きな漫画読んでるとき楽しくない?」で良いと思う。楽しいから生きているというところがスタートで、何ものかになりたいなら努力したらいいけどそれだけに囚われるとキツい。殺し合いの螺旋。

 

友達とユーモアを交えて会話を楽しむ人格は家族には見せず、家の少し手前からガラガラと分厚いシャッターを下ろして生活していた。ATフィールド全開。超絶思春期。

 

「生きる意味とは」に支配されていたので若い生命を輝かせている同級生が理解できなかった。悩みが無さそうでひたすらにうらやましかった。養われてんのに男女交際とかしてんじゃねえよと思っていた。歪んでいた。ひがんでいた。斜に構えていた。愚かだった。全て自分中心に考えていた。

 

「生きる意味とは」からくる希死念慮と胃痛、不眠、金縛りに苦しみながら公務員試験の過去問を毎日毎日ひたすら写経。地方公務員試験初級に合格。

 

やり方が分からず我流の「書いて覚える」で合格したわけだが、代償に恐ろしく不器用な脳味噌に仕上がった気がする。理解して身に付いた知識か、記号だけが頭に詰まっている状態のどちらが良いかは明らかで、我流による成功体験も素直さが失われた一因だと思われる。

 

性格の歪みと相まって更にプライドが高くなった。ただ、その成功体験が自信や自己肯定感に繋がるので良かった面もある。と思う。

 

高校卒業して1年間は一人暮らしを始めるためにお金を貯めた。その頃は地元の友達と深夜のガストに溜まったり夜な夜なドライブに出掛けることが本当に楽しかった。木更津キャッツアイや3名さまというドラマのイメージでダラダラと金をかけず楽しく過ごす。あとはサマーソニックでオアシスやウィーザーを見た。リトルバーリーとレイクスもカッコ良かった。19歳の夏。

 

一年間の貯金生活を経て待望の一人暮らしが始まった。心のシャッターを下ろし過ぎていたので家を出るときに父親から「一人暮らししても家族の縁は無くならないんだからな!」と怒鳴られた。今は不安にさせて申し訳なかったなと思う。

 

遂に一人暮らしが始まった。何をしようが自分を咎めるものはいない。自由だ。圧倒的な自由を得たのだ。心の底から嬉しかった。

 

そこからは友達とずっと酒を飲んでいた。最高に楽しかった。生きていて良かったと思えた。

 

生活費を除く給料の使い道は、酒と音楽と漫画と映画と服だった。友達とどうやって楽しい時間を過ごすかということと女性にモテることだけを考えていた。本当にただそれだけだった。

 

いつも一緒にいた友達は個性がバラバラだった。面白いやつ、イケメンなやつ、ダンスしてるやつ、優しいやつ、その個性がひしめき合う中で自分はエキセントリック枠を狙った。エキセントリックでミステリアスなオタク枠。埋もれないためにどうすればいいか遊びながらずっと考えていた。

 

よく二日酔いを風邪だと言って嘘をついてズル休みした。社会を舐め切っていた。あぁ、本当にごめんなさい。

 

そのときの仕事は住民票を出したり国民保険料を集めたり。国民保険料を納付できない人に納付のお願いをしたり、納付の相談をしたり。ノルマもなく、成果が上がらなくても自分には関係なく思えた。

 

また、納められない人に納めてとお願いすることが苦しかった。納めないとダメだけど。困ったときの助け合いのためのお金なので。頭では理解していた。向いてなかったのかも知れない。

 

享楽的な日々を過ごすうちに心の隅の方から別の感情が段々と湧いてきた。「このまま年齢を重ねたら、何もないおじさんになりそうだ。それは嫌だ」。今思えばどうでもいいのだけど、そのときは若くて血気盛んだった。何ものかになりたくて生命を燃やしている友達が近くにいて眩しかった。自分も何ものかになりたかった。ただ何も行動していなかった。

 

高卒の公務員に出世が難しそうに思えたことも徐々に未来を暗澹たる気持ちにさせた。高卒が出世するためには大卒資格を取らなければいけないようだった。今考えると「やれ」というだけの話だけど、そのときは「このままで」「自動的に」「幸せになれ」と願っていた。残念。

 

酒酒酒酒。週4で酒、週2でクラブ。将来へのぼんやりとした不安に対して「安定した人生を手に入れた。これでいいのだ。職を失うことはない。もう努力し終わったのだ」と自分に言い聞かせながら遊び呆けた。

 

最高に楽しかったけど少しずつ満たされない心を募らせていた。安定はしていたがやりがいを見出せなかった。今なら公務員の仕事にも見出せる気がする。仕事は必ず誰かのためになっている。目の前のことを一生懸命にやる。

 

遊びながら「もしも公務員をクビになったら」と妄想していた。眼鏡屋か美容師はどうだろうと考えた。眼鏡が好きだった。美容師の一生を懸けて技術を追い求める生き方は充実した人生が過ごせるような気がした。もしくは全てを捨てて沖縄に移住して大麻を栽培する人になりたかった。

 

料理でもスケボーでもギターでも何かに夢中になっている人がうらやましかった。スキルアップしていく友達がうらやましかった。趣味が無くて悩んでいたけど金にならないことにパワーを割けなかった。合理主義的思考に凝り固まっていた。

 

高卒から4年半、酒酒酒酒の怠惰な生活を送っていたが遂にバースト。飲酒運転で捕まり懲戒免職。幸いにも怪我をした人はいなかった。笑い話ではない。飲酒運転は絶対にダメ。パトカーでアルコールチェッカーを膨らませながら「美容師になろう」と思った。なぜか眼鏡屋も沖縄移住も消えていた。

 

美容師を目指したわけは?と聞かれたら、「一生を通じて技術を修めていく生き方に魅力を感じたからです」と答えている。仕事にやりがいを感じたかった。自分の技術を誰かに提供して喜んでもらいたかった。生きがいを感じたかった。今はお客様に選んでいただいて仕事ができていると思っている。自分の場合。

 

あとは、とにかくたくさん美容室があるので自分にも開業できるような気がした。開業したら全て自分の責任と裁量で仕事ができる。男性ホルモン的な部分で組織のトップになりたかったのかも知れない。人に何かを強いられたくなかった。これも今は社会があって自分が存在していると思っている。なんでもいいけど。

 

また、公務員のときは世の中のルールの番人として個の人格を消して窓口対応をしていたけど、美容師になったら友達と話すようなイメージでお客様と話せると思った。そのような接客を受けていたので。髭も服も自由だった。サブカル糞野郎なので好きなものに囲まれて働けたら幸せな気がした。

 

専門学校に入学。借金をすると言ったら親が出すと言ってくれたので「絶対に返す」と思って親から借りた。4年半の享楽的生活で少し自分の態度は軟化していた。ただ金はいつか必ず返すとまだ思っている。

 

現役生より5年遅れて入学。5歳も下に友達なんてできるわけがないから俺は勉強して首席で卒業するんだと思って入学したけど、気が付けば勉強もそこそこに周りを飲み会に誘いまくる劣等生グループを年長者として引っ張っていた。

 

学校では技術というものに触れた。上位10%はすぐにできるやつ、次の40%は努力すればできるやつ、その下の40%はかなり努力しないと何もできないやつ、最下層はかなり努力しても厳しいやつ。自分は最下層の少し上くらいだった。

 

天性の手先の器用さや、人の言うことを聞ける素直さ、とにかく良く手本を見る研究心、自分にトレースできる柔軟さ、とにかく数をこなす努力、今は技術を修めるコツが少し分かるけど、そのときはいずれも足りなかった。創造性は別の軸の話。

 

自分の不器用さに絶望しながらも、いいやつがたくさんいたので楽しい学校生活だった。高校を卒業して少し大人になってから思う「今の状態で学校生活に戻れたらなあ」という子供じみた妄想が叶えられたような貴重な時間だった。

 

無事に国家試験を突破し就職。就職先は、現役で美容師をしていた親友の彼女に助言を求めて決めた。10年前、体育会系のノリが世間でも容認されていた時代。スラムダンクで言うと陵南高校的なお店だった。

 

3に続く。

 

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