田中まじめ滅餓寧武露愚

よろしくお願いします。

田中まじめ物語4

退職即東京観光。退職前、社員旅行でタイに行く予定だった。自分で積み立てていたお金が退職金の代わりになった。

 

東京には東郷清丸さんのライブを見に行った。感動して新潟に招聘するべくその場でギャラ交渉をした。ライブを主催してみたかった。

 

東京旅行の後は、2ヶ月まるっと遊んだ。まさに覚醒したルフィのように毎日ワクワクして生きることが楽しかった。忘れていた感覚だった。1ヶ月ニートすると飽きると聞いていたけど2ヶ月でも全く足りなかった。

 

将来に対する不安は全くなかった。今までがハードコア過ぎたので何の仕事に就ても給料は上がり休日も増えることが分かっていた。嬉しかった。金銭的な問題や時間的な問題から我慢していたやってみたいことがたくさんあったのでそれをやろうと思った。

 

2か月間のニート生活、最後の方はメルカリでモノを売って暮らしていた。木更津キャッツアイDVDとか売れてるアーティストのインディーの頃のCDとか。貯め込んでいたオタクグッズを一部ながら手放した。手放してしまうとそれはそれで大丈夫だった。まだ全ては無理だけど。

 

しばらくして派遣社員として工場で働きはじめた。初めての肉体労働だった。ひとつひとつは持つことができる重さでも連続して運んでいると疲労が溜まっていくことが分かった。最初の3ヶ月くらいは体が慣れなくて特に大変だった。以降は慣れたが腰痛が慢性化してコルセットを巻いて仕事をした。

 

仕事中は、次の休みに何をしようかとか家に帰ったら何をしようかとかどうやって生きていこうかなどなどたくさん考えていた。自分が担当していた仕事はそこまで難しいものではなかったので考える時間がとても楽しかった。

 

午前と午後に一回ずつ15分休憩があったり、昼休みが1時間しっかりあって休憩室で寝れたりして働きやすかった。休みも多かった。また、ほぼ毎日17時ピッタリに仕事が終わることに感動した。美容室に勤務していたときと比べて、会社で過ごす時間は半分くらいになり給料は前より50000円くらい上がった。幸せを感じることができたのは過去の自分が頑張っていたからなんだと思う。

 

工場でも人間関係は上手にできなかった。優しい人が多かったけど合わない人もいて輪に加わりたくなかった。少しは話したけど基本的にはシャッターを下ろして仕事をしていた。作業自体は1人でやるようなものだったので問題なかった。自分の気難しさを自覚した。

 

33歳のフリーターだったけど楽しかった。やりたかったことをやった。ライブを主催してみたかったので主催したり、フリマを主催してみたかったので主催したり。大変だったけど楽しかった。周りの人に助けてもらった。「よく考えて準備すれば何とかなる」と「大変だけど楽しい」が良い経験だった。アイドルにも初めてハマった。

 

フリーターだったけど結婚もした。させてもらった。自分の将来の選択肢が多すぎて迷っていたときに、とても良い人がいて、自分の存在を受け入れてくれた。そこを土台に人生を積み上げていきたいと思った。

 

新婚旅行はスペインに行こう!と10年ぶりくらいに貯金を始めた。結婚パーティーもやる予定だったがコロナ禍が到来した。新婚旅行も結婚パーティーも段取りが終わりあとは当日を待つだけという時に始まった。

 

最初は「コロナ?なにそれ?」みたいな空気感だったけど、世の中がどんどん封鎖されていった。強行したかったけどダメになった。パーティーをする予定だった日が初めての東京ロックダウン宣言が発出された日だった。かなり心苦しかったけど中止の判断ができて良かった。

 

それから3ヶ月間くらい「なんだこの世界」という感じでフワフワとしながら生活した。コロナ初年度の夏、良くなる見通しは全く立たなかった。新婚旅行が終わったら子作りするかなどと夫婦で話していたけど、いつになるか全く分からずフワフワとしながらニュースを眺めていた。

 

コロナが少し落ち着いたタイミングで帰省してきた東京の友達に「いつになるか分からんことを予定に組み込むと大変じゃない?」と言われて意識が固まった。たしかに。「こんなに先の分からん世の中で、いつ死ぬか分からんのでやりたいことをやろう」と思った。それがコロナ初年度の盆。

 

「やりたいこと」が店を持つことだった。コロナ初年度の10月に工場をやめて11月から美容師に復帰した。