田中まじめ滅餓寧武露愚

よろしくお願いします。

田中まじめ物語3

入社。現役より5年遅れて入ったので一年先輩は四つ歳下だった。めちゃくちゃやりずらい後輩だったと思う。申し訳ない。

 

始めに言っておくと、めちゃくちゃつらいことがたくさんあって結果的に会社の考え方を拒絶するような感じで退職したけど、今はその気持ちも感謝に変っている。人間は変わる。それもやっと最近。

 

修行させてもらった美容室は、スタッフはファミリー、売上は満足度の数値化、お給料は少ないけど、やりがい、夢、感謝だった。入社してすぐの合宿で先輩が怒られ続けて立ったまま気絶して倒れた。「これはとんでもないところに入社したぞ」と思った。

 

とにかくお給料が安かった。教えてもらっているから給料が安いというのは分かるけど、売上が作れるようになってからも安かった。自分はそう感じた。

 

先輩が売上を作って、そこに若手がぶら下がっているという構図は分かる。必要経費も分かる。社長の給料も分かる。しかし、満たされない心に感謝を強いて充てがうような状態には疑問を感じていた。バランスだと思うけど自分の感覚とは違っていて受け入れ難かった。

 

退職するときに社長から「お前の弱点は構造が分かってないところだ」と言われたことが強く記憶に残っている。最近、別の経営者のお客様が「最近の若いやつは働く前から条件をつけてくる。仕事ができなくて教えてもらう立場なのに全く心構えが間違っている。分かっているやつしか雇いたくない。」と言っていた。

 

それで言うと確かに自分は構造が分かってないのかも知れない。教えてもらう立場は分かるけど、個人の我慢には限界があった。そのとき自分が言われた「構造」が何を指していたかを確かめる術はもうない。あと過去の「親の支配から逃げるために高卒で公務員を目指す」も構造の捻れに近いような気がしてゾッとする。

 

練習時間も長かった。自分が退職する頃にはかなり良くなっていたけど、入ったときには日付が変わるなんてザラだし大会前には2時間しか寝ない(地獄のミサワ)で仕事に行くことが当たり前だった。23年目くらいまでは長く店に残っているやつが偉いみたいな風潮があった。先輩も見てくれるために残ってくれていた。

 

練習量は必要。上手くなってそれでメシを食っていく。自分のため。落合博満も言っていた。そのときの自分に自主性が足りなかった。やらされていたらダメ。あと、やることはやらなきゃダメ。考えてやらなきゃダメ。

 

社長は当時から量より質を求めていたような気がするけど熱量を求められた若手が暴走し「いや、やるっス!」みたいな空気感が社内に醸成されてしまっていた。入社当時のスーパーハードな空気感は、社長と店長たち先輩たち後輩たちの関係性や時代の流れにより緩やかに変わっていった。

 

1年目の終わりがけか2年目くらいのときに、一期上の先輩(年齢は四歳年下)から「家帰っても寝るだけだし一緒に住もう」と誘われた。『確かに金が浮くしヤバ過ぎてウケるな』と思い家賃3万円の六畳一間のアパートに2段ベットを持ち込んで先輩との同棲生活が始まった。タコ部屋の完成だった。つらすぎて一年くらいで終了した。特に事件が起きた訳ではないし先輩との仲も良好だったけどパーソナルな空間が生きていくために必要だと思った。

 

休みは講習会やミーティングと練習や練習モデルを街中に探しに行ったりした。これも社長は「休めるときは休め」と言っていたけど熱量若手の「いや、やるっス!」が暴走していた気がする。

 

入った頃は仕事ができず何をやっても怒られた。怒られ続けると「怒られキャラ」みたいなものが付き、「何を言っても大丈夫な人」を経て「雑に扱っても大丈夫な人」になってしまった。

 

どれくらい仕事ができなかったかというと、最初は「気を使う」という言葉の意味すら分かってなかった。極端に言うと自分中心の合理性や効率性だけで生きていた。

 

「気」が使えないと仕事の流れや優先順位が全く見えず職場のスピードについていけなかった。絶えず先を読みお客様が快適で先輩が仕事をしやすく店の価値が上がるような最適解が求められた。

 

若手の頃は、「何で聞かずに勝手なことするんだ」と「もっと自分で考えろ」の狭間でボロボロだった。気を使えない人はアクションを起こしたいときに自分の引き出しに何か入ってないと動けないので色々なパターンをインプットすることが基礎編な気がする。違うのかな。自分の場合は全てぶつかり稽古で教えてもらったけどもっとマニュアル化できたのではないかとも思う。

 

先輩との関係性の作り方も重要だった。公務員のときにはあまり感じなかった明確な上下関係があった。技術を教えていただく立場、アシスタントという仕事を手伝わせてもらう立場、自分はとにかくプライドが高く自己中心的な性格だったので上手に立ち回れなかった。言うことも聞かなかった。聞けなかった。

 

言うことを聞かないのでアシスタントに入らせてもらえないことがたくさんあった。シャンプーだけでも先輩スタイリストのお客様全員に入客させてもらう信用をいただくまで3年くらいかかった。

 

プライドは「俺はスゴイから尊重してくれ」という願い。子供が大人になるとき、社会に帰属していくときに、現実と折り合いを付けていくものだと思う。ただプライドは自分を大事にすることでもあるので生きていくうえで必要な部分もある。良いプライドと悪いプライドがある。

 

できないくせにそのような感じだから上手くいかないと頭では分かっていたけど自分を変えることの難しさに苦しんでいた。自意識の殻に閉じこもっていた。

 

社長は「プライドが高いから人の言うことが聞けない。先人たちの知恵を尊重せず全部自分でやろうとしてる。だから時間がかかる。まず信用してやってみろ。成長が遅いと会社が困る。そういうやつのプライドを壊して殻を破ってもらうのが俺の仕事だ」(意訳)というようなことを言っていた。技術を教えてもらうための心構えは、このあたりな気がする。自分みたいな人間には。 

 

また、社長は「どんなやつでも一人前にしたい」とも言ってくれていて、どんなに仕事ができなくてもクビにはしなかった。今でこそ少し分かる。その環境でしか自分みたいなものは成長が難しいような気がする。育ててもらった。感謝している。

 

ただ、実際に修行しているときには全方向から浴びせられる言葉を選ばないご意見に身も心もボロボロだった。自分では無いけど怒られまくった先輩が失踪したり、怒られまくった後輩がトイレに立てこもってそのまま退職したりする職場だった。現代社会で消えつつあるもの。しかし、それを経ての今がある。

 

お客様さまとお話することはとても楽しかった。美容師になる前の20代前半にモテたい一心で磨いていたコミュニケーション能力が活きた。遊んでいたときの女性でも男性でも色々な人と話した経験のおかげだった。

 

人間関係と技術習得と売上の追い込みと未来に対する不安のストレスに押し潰されて胃潰瘍に罹った。シャンプー中に貧血を起こし失神してそのまま入院した。

 

ベトナムのお店に3ヶ月働かせてもらったこともあった。会社から言われていた仕事とベトナムの会社から求められた仕事に相違があり、無理ですと言って帰国して美容師をやめようというところまで追い込まれた。だが、そこでもめちゃくちゃ良い人たちに助けられてベトナムの大学でモデルハントして練習して乗り越えた。壮絶だった。

 

スタイリストとしてベトナムの地でデビューした。このとき明確に「目の前のお客様の頭を俺が何とかする」という気概が湧き起こった。今はごく当たり前の感覚だけど、一皮剥けた瞬間だった。

 

渡航前、4期だったか5期下に天才が入社してきて技術も売上も人望も一気に越されて居場所が無くなる未来が見えたときがあった。しかし自分がベトナムに行っている間はやはり先輩方からボコボコにされていたらしい。緩衝材が無くなって矛先が変わったんだなと納得した。

 

帰国して半年くらいで退職した。辞めた理由としては給料が安すぎたということと、今のままの環境で働いてもすぐに良くなるように思えなかったことが理由だった。辞めるときには自分も32歳を超えて周りの友人たちが結婚したり家を建てたりしている話を聞くようになっていた。

 

修行を覚悟して5年遅れて入社したものの周りより圧倒的に金が無い生活に耐えられなくなった。追わされ続ける売上と技術力と給料の関係も大人になるに連れて納得できないバランスに感じてきた。最終的な給料もツバサ時代のプールイより全然少なかった。

 

退社を決める前、ストレスの絶頂期は虫に食われる夢を見て絶叫して夜中に目を覚ます日が続いた。同棲していた今の奥さんに心配された。退社を決めてからはピタリと見なくなった。

 

退社する半年くらい前から新規のお客様にスタイリストとして入客させてもらっていたが社内の規定としては売上が足りずアシスタントのまま退社した。7年半勤めた。

 

この物語はフィクションです。