田中まじめ滅餓寧武露愚

よろしくお願いします。

他人からどう思われても気にしない(むずすぎ)

とても難しい。


2つ前のブログ「薄目で見るツイッター」の続き的な内容です。


「どう思われているんだろう」を気にしすぎると何もできなくなってしまいつまらない。私は嫌われたくない。良く思われたい。


気にしなすぎると周りに誰もいなくなってしまう気もする。それでいいと言う人もいる。それも真なり。いやー、さみしい。


気にする気にしすぎないの線引きは社会全体に対して良いかどうかを自分なりに考えること。


社会全体に対して良いんだという自分の正義があれば頭の中から外に出して伝えても良い気がする。


そのように一呼吸をおけたら他人から何か言われても「私は正しいと思ってやりました」と自分の心が致命的に傷つくことはないのではないだろうか。


本当に正しいかどうかは別。間違ったら謝る。間違って無かったら自分の考えを伝える。


また、その見えざる社会全体というものの基礎は小学校中学校の教育なのではないかと考えている。みんなのものさし。


だからきっと勉強は大事。何かを判断するとき基礎になる日本人の共通知識。はい。感覚で言ってます。


ただ、「これをしてるやつはきもい」とかは自分が最初にどこかで見たときの感情。もしくは誰かが言っていた感情。


※偏見は自分が体験してきた統計的なあるあるネタという側面も。


だから何かを否定すると、未来の自分の選択肢がどんどん減っていく。好きになるかも知れないことが減る。


否定したくなったらスッと距離を取る。人は一人一人それぞれの考え方と人生がある。


若いときに否定的に見ていたものが実は楽しかったりして早く知っておけば良かったなと思ったことが増えてきた。


自分が嫌いでも誰かが好きだから、その何かにはどこかに良い部分がある。どうせだったら自分も楽しめる側になりたい。無理はしないが。


味方と敵に分かれているのではなくて、ひとつのものの中に好きな部分と好きじゃない部分が混在している。好きな部分を認めると意外と表と裏がひっくり返る。


とは言え私も嫌だなと思うことや苦手なものはたくさんある。だが、なるべくそれらに囚われたくないので上に書いたようなことを少しずつ意識している。人の悪口はなるべく言わない。なるべくかーい!では。